問1:漢の高祖は匈奴の単于に敗れ、婚姻などによって和親を図った。唐の太宗は、「吐蕃(チベット)」のソンツェン・ガンポに皇女を嫁がせた。宋は、「遼」と澶淵の盟を結び、金が攻めてくるまで平和を達成した。南宋は、華北での支配を広げる「金」と紹興の和議を結んだ。(秦檜と岳飛もここ)
問2:魏の首都は「洛陽」で、建康(南京)を首都としたのは東晋。倭の五王や朝鮮半島諸国の冊封が描かれたのは「宋書」で、史記は司馬遷が書いた紀伝体で成る歴史書で、漢に至るまでの歴史を記す。唐は「大祚栄」を渤海郡王に封じ、大祚栄は渤海を建国、また安禄山は唐の節度使で、755年の安史の乱を率いた。足利義満は、明から日本国王に冊封され、倭寇鎮圧を条件に勘合貿易を許された。
問3:楽浪郡がその一つである四郡は、衛氏朝鮮を滅ぼした漢の武帝が置いた。「高句麗」は、隋、唐の侵攻を受け、隋の際には煬帝が攻め(大運河はこのため)、隋内部の反乱で頓挫し、唐の際には新羅と共に百済を征服した後攻められ、高句麗内部の反乱もあり滅亡。唐と結んで朝鮮半島の二国(百済、高句麗)を滅ぼした新羅は、中国文化を取り入れ、統一国家を樹立。李成桂の始めた朝鮮王朝(李氏朝鮮)は、文禄・慶長の役(壬辰・丁酉の倭乱)を明の救援もあり退けた。
問4:1848年に起きた六月蜂起は第二共和政の国立作業場閉鎖による暴動で、軍事的に鎮圧され、労働者と政府の溝が深まり、ルイ・ナポレオンの台頭(第二帝政)を招いた。1848年に始まったフランクフルト国民議会では1849年にオーストリア主導の大ドイツ主義ではなくプロイセン主導の「小ドイツ主義」に決まった。1848年にオーストリアで起こった三月革命により、メッテルニヒは失脚し逃亡、ウィーン体制は崩壊した。ガリバルディは「1860年」にシチリア、ナポリを占領しイタリア共和国が成立した。
問5:第一次世界大戦のパリ講和会議では、オーストリア・ハンガリー帝国は「解体」された。パリ講和会議においてヴェルサイユ条約が成立し、戦間期の国際秩序はヴェルサイユ体制と呼ばれる。ドイツは全海外植民地を失った。オーストリア・ハンガリー帝国の分裂によりできたハンガリー帝国は、講和としてトリアノン条約を結び、またブルガリアが講和として結んだのは「ヌイイ条約」である。
問6:第一次世界大戦後、中国では山東省でのドイツ権益を日本が引き継ごうとしたことで五四運動が起こった。朝鮮では、ロシア革命及び第一次世界大戦末期の十四か条の平和原則(民族自決)に感化され三一独立運動が起こった。イランでは、1961年、パフラヴィー朝が強制的な西欧化革命(白色革命)を進めた。トルコでは、第一次世界大戦後、大国民議会の決議により、スルタン制が廃止され、その後近代化によりカリフ制が廃止された。
問7:第二次世界大戦後すぐに第二次国共内戦が開始、優勢になった共産党は1949年中華人民共和国を建国。1948年に大韓民国を李承晩が建国、1950年に朝鮮戦争が勃発した。(朝鮮戦争末期に中華人民共和国が北朝鮮を支援したことからも予想可能)
問8:トルーマン・ドクトリンは、トルコ・ギリシャを支援し、共産化を防ぐため(周辺国のドミノ理論による共産化も防ぐため)。「中華人民共和国」では1949年でも地主制であったので土地改革法を施行した。第二次世界大戦後、オーストリアはドイツと同様に米・英・仏・ソの4カ国に分割のうえ、共同管理下に置かれた。ユーゴスラビアは、1947年設立のコミンフォルムの主要メンバーだったがチトーの独自路線による対立で1948年に除名された。
問9:東南アジア条約機構は対共産圏包囲網であったら有効に働かずベトナム戦争集結と共に1977年消滅。日米安全保障条約は、アメリカ軍を日本に駐留させることを認めた条約(対共産脅威)。アフリカ統一機構は、アフリカの年に独立したアフリカ諸国含む31か国が参加した会議で発足し、アフリカ諸国の独立を支援した。中ソ友好同盟相互援助条約は、日本を仮想敵国とした軍事同盟で、これにより国民党との中ソ友好同盟条約は破棄された。
問10:パグウォッシュ会議は、1957年に始まり、現在も続いている核兵器廃絶の為の科学者による国際会議ある。部分的核実験禁止条約は、地下以外での核実験を禁止した(技術後進国では地下実験は難しい為)。非同盟諸国首脳会議は、米ソどちらにも加わらない諸国の国際会議で、第一回はユーゴスラビアの首都ベオグラードで行われ、バンドン会議はそれより前のアジア・アフリカ会議。ケネディはベトナム戦争への介入を始めたアメリカ大統領で、ベトナム反戦運動により当選したのはニクソン。
問1:大航海時代による経済発展で人口が増加したことで、エルベ川以東では穀物需要から「農奴制が強化」された(その支配者がユンカー)。トマス・ミュンツァーは、ルターを支持し、また農奴制廃止を掲げ、「南ドイツ」でドイツ農民戦争を始めた。フッガー家を始めとする南ドイツの大商人たちは、ヴェネツィアとの交易、チロル(イタリア)銀山、ハンガリーの銅山経営で莫大な富を得るも、大航海時代により商業の中心がリスボンやアントウェルペン(新大陸と交易)に移った。資本家が道具を貸し、商品を生産させる問屋制家内工業により、工業に関わることのできる人を増やし、生産を向上させた。
問2:カルヴァンの予定説では、「人はその善行によって救われるのではなく、神が人を義と認めることによって救われる。」とされる。また、職業的成功が救済の証拠になると考えたため、蓄財を容認した。財産共有制の理想を掲げたのはキリスト教共産主義?。最初に言った通り、来世が救われるか否かは、神の意志のあり方によって決定される。
問3:モンテーニュは、ルネサンスを主導し、「エセー」(エッセイ)を書いた。エラスムスは、宗教改革の先駆となったが、ルターとは距離を置いた。マキャベリは、「君主論」を書き、君主は「ライオンのような勇猛さと狐のような狡猾さ」が必要であるとした。トマス・モアは、政治・社会を風刺した「ユートピア」を書いた。
問4:アッバース朝の子孫をカリフとして擁立したのはマムルーク(正当性確保の為)。正統カリフはそもそも7世紀。マムルーク朝は、シリアに侵入したセリム1世により滅ぼされた。セルジューク朝は十字軍や内紛により滅亡した。
問5:ノヴゴロド公国は、862年、ルーシがリューリクに率いられ、スラヴ人を征服しできた(因みにロシアの起源)。1700~1721年ピョートル1世は、スウェーデンと戦ってバルト海の覇者となった。ロシアのシベリア進出は、雷帝ことイヴァン4世の時に本格化した。ヤギェヴォ朝は、ポーランド・リトアニア共和国の王朝。
問6:ヒンドゥー王朝ではなくイスラーム王朝。バーブルは、ティムール朝の王家で、ムガル帝国の創始者。タージ・マハルはシャー・ジャハーンが建設した。南端までは統一しなかった。